今年の遠州大名行列物語
Daimyo Gyoretsu Story |
”力強く悠久の時をつなげて"
相坂(あふさか)をうち出でて見れば淡海(あふみ)の海白木綿花(しらゆふはな)に波立ち渡る(現在の滋賀県大津市)
大の浦のその長浜に寄する波寛けく君を思ふこの頃 (現在の静岡県磐田市)
祖父である初代与平は、若いとき西国の故郷を離れ、江戸で料理屋の板前見習から腕を上げる。修行の店が川魚料理を得意としていたため、そこですっぽんのもつ身体への栄養と効果を学び、調理方法も会得したと思われる。江戸での修行を終えるころ、故郷で小さな料理屋を構えたいと考え、亭主より暇をもらう。
一路東海道を西へ向かう途中、見付宿の南一帯に広がる”いまのうら”と呼ばれていた大きなため池にたくさんのすっぽんが生息し、宿無しが思いついたすっぽん料理 屋が安<て美味いと、東海道を行き来する旅人の間で評判になりはじめていることを知る。そしてこれは商売になると思い、故郷へは帰らず見付宿で小料理屋をはじめたらしい…と亡くなった二代目の父親から聞かされている。たしかに、見付宿の名物になったすっぽん料理のはじまりは、見付宿を寝床にしていた宿無しによって、安く美味しいすっぽん料理がはじめられたと、平成の時代まで語り継がれている。
屋号から察して…和泉…今の岸和田市が初代の出身であろうか。今般、見付宿本陣逗留のお殿さまに街道一のすっぽん料理を振る舞うよう、本陣亭主より依頼されるようだ。
東海道名所記に… 『町の中にそうしゃ大明神、右の方にあり、町はづれ左の方に、いまのうらというため池あり』
『見付名物 一にすっぽん二に大之浦 味と安さは街道一』
戦に次ぐ戦、そんな戦国の時代が終わって、時は江戸時代。長く太平の世の中がすすんでおります。穏やかな時代だからでしょうか、お殿さまも戦の支度の時間より、自らの教養を高める時間が多くなってまいりました。そんなお殿さまのおひとりが、霊峰比叡の山を背景にして、風光明媚な琵琶湖のさざ波打ち寄せる浜辺にあります膳所城におられました。
この膳所のお城は、東照大権現徳川家康公によって慶長六年に築城された歴史ある水城、日本三大湖城のひとつに数えられました。江戸時代、徳川幕府が諸大名に号令し築いたお城の第一号、城作りの名手でありました藤堂高虎が計画の任にあたり、琵琶湖の水面に映えるその姿はとても美しいものでした。現在の城主であります高柳家は、三河国西尾藩より入城、歴史をふりかえりますと十三代…二百二十年、明治維新までつづいていく名家でありました。さて…
その歴史に名を残しておられます藩主のお一人が高柳近江守裕久公その人であり、窮民に対する福祉政策など諸改革で藩政を安定させた名君でした。
また藩侯は、文化芸能に通じた文化人としても有名で、これは、その育まれたお城が自然豊かな環境につつまれていたということもありましたが、将来の藩侯の嗜みのひとつとして、幼少の頃より、その師である比叡の僧侶が教える教養の時間、とくに和歌の世界観に興味を抱き、その歌に表された情景を思い浮かべるのが、お城の中での楽しみであった と言われております。そのような環境下、戦より太平の世の中、文化芸能に興味を持つのは自然の理。その中でも秀でていたのがやはり和歌の探求でありました。とくに万葉の時代に詠まれた歌は、おおいに興味を抱き、その詠まれた国を実際に訪ねるのが藩侯としての楽しみ、参勤交代をはじめ、大名行列を整え旅する途中途中の各地において、和歌が詠まれた万葉の里でのひとときを楽しみにされるほどの文化人であったのです。
さて、此度の旅は、江戸への参勤交代。西国から東国へとお供の家来をともない東海道を進んでまいります、もちろんへ家臣たちもお殿さまの楽しみを知らないわけではありません。
『万葉集に詠まれた景白はないか?』と道中奉行は、今回もお殿さまのために大名行列の支度を進めたのでございます…そして、今回えらばれた宿場が見付でございました。 ひとあし先を進む先触れ役は、信濃より遠江へと流れます天竜川の渡しを過ぎ、見付宿の宿役人だちとご本陣をあらため、そしてなにやら相談をしているようでございます。
翌日、高柳のお殿さまの行列は、尾張を抜けて東海道を三河国へ、そして天竜川を無事に渡り終えますと、遠江池田にございます熊野御前ゆかりの行興寺にてご休憩、今が盛りの熊野の長藤を愛でながら、和尚より献上されました磐田茶を所望の様子でございます…。
さてさて万葉集に詠まれた名勝地大之浦の今は…東海道名所記に書かれた『いまのうらというため池あり』なのでしょうか。藩侯と見付の名物の物語、こうご期待でございまする。
作 光阿弥
(この物語は、昔話と史実を参考にしてつくられた創作です。)