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今年の遠州大名行列物語
Daimyo Gyoretsu Story

 

駒ヶ根市友好50周年
”昔々のお国自慢がゆるぎなき友好の絆をふかめたんだとさ"

昔々 遠州と呼ばれるところに見付という栄えた宿場がありました。江戸 から京の都、京の都から江戸の町へと、東海道を往来する人と、 人情厚い町衆の賑やかさが今日も“東海道に見付あり”と、その 名をとどろかせておりました。

この見付宿を栄えさせておりますのは、福田村の港にあがりま す海産物、またおだやかな田園のなか、海より今之浦川をのぼっ てまいります船にてはこばれた各地の産物でございます。

また西に目を移しますと歌川広重が題材にとりあげたことでも有 名、満々と水を湛えて流れる天竜川があります。遠く山々から切り 出された材木が、その水運を利用して輸送され、その筏の到着 地が竜洋村、豊田村、豊岡村、そこから見付宿へと集まってまい り、商いもうるおっておりました。 古くより川と海に恵まれた東海道見付宿、人と物にあふれてい た豊かな宿駅として、長く栄えております理由が、そこにあります。

さて、そんな見付宿には昔々より伝えられたお話が残されてお ります。見付天神にまつわる『しっぺい太郎』のお話、どのような物 語か詳しいお話は、つぎの機会にいたしとうございまするが、その お話は信濃国にあります駒ヶ根村とつながり、見付、駒ヶ根の人 の行き来も相変わらず盛ん、江戸時代のいまも深い絆で結ばれ ているのでございます。

駒ヶ根の人々が飢饉で苦しめば見付より食べ物が、塩を必要 とすれば塩をはこび。それだけ見付の人々には、駒ヶ根村に助け ていただいた遥か昔の恩義が息づいているのです。 さて、江戸時代はじめの慶長6年(1601年)、駒ヶ根村を領地 とする飯田藩五万石に新しいお殿さまが着任されました。 その名は杉本信濃守幸治(すぎもとしなののかみこうじ)、その在 任中は藩侯として信濃の発展に尽くし、民衆とのつながりも大切に されました。また藩侯は、周りの家臣たちも認めるほど大の恩と情 けに厚く、心温かいお殿さまでした。

そのような藩侯のことですから、駒ヶ根村と遠州見付とのつな がりを知らぬふりなどできませぬ。 『わが藩にも心が通ったつながりがあるの』 たいそう喜ばれ、見付の町役人を信濃へとよび、赤穂村にありま す光前寺で宴を催したことも、度々あったそうです。

藩侯

藩侯まで知るところの駒ヶ根村と見付宿とのつながりは、やがて 飯田藩まで広がり、文化、物産の行き来が互いにあり、記録には 残されておりませんが、もしかしたら有名な水引の行商も見付宿 へと足をのばし、商売につなげたこともあったかもしれません。

しかし、慶長18年(1613年)幸治公が信濃松本藩へ移封、 飯田藩は廃藩、天領として飯島陣屋が置かれ、当面は、遠州中 泉代官所が兼務、出張陣屋となることになりました。

そこで藩侯は、天領となるまえ、遠州見付宿を訪ねてみたいと いう思いと、自ら中泉代官との領地引き渡しの評定に望みたいと 家臣に命じ、大名行列の支度を整えたのでございます。 見付宿を目指したお行列、伊那街道を過ぎたらそこは三河国、 東海道へとはいり東へ進むのでした。天竜川を渡り終えますと一旦池田宿の庄屋宅にてご休憩、このあと見付宿に向かうのです。

見付宿で繰り広げられます町衆とのふれあい、また中泉代官、 渡部修嬉野。との対面、そこで交わされた出来事が、平成の世ま で続く交流のより一層の礎になったとか…ならなかったとか。

見付 宿に伝わる…またひとつそんな昔話を、さてさて…はじめることに いたしましょう。                   

作 光阿弥

(この物語は、昔話と史実を参考にしてつくられた創作です。)